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神という存在

祠 掌編小説

突然だが私は人間界でいう神的存在を請け負うものだ。

そんな私の仕事はというと、幸と不幸の均衡を保つことである。

人というものは少し刺激を与えただけでも、アンバランスになっている。

しかしそんな中、私たち神は負の力、正の力を微調整し、絶妙なバランス感覚を保持し続けているのだ。

不幸または幸でも人は伸びない。

波があることで能力を向上させていくと我々の文学では考えられている。

これの仕事の担当はそれぞれ別れて、国、人か動物かで分別されている。

因みに私は日本という国の人間担当だ。

空から人を眺めることは数ゆえに少し億劫になったり大雑把になったりすることがある。

この私情によるミスが地球上でいう事故という形として浮き出てしまうのだ。

天災や人の死において、古来の人間が我々を恨むことは正しかった。

もともと私のミスなのだから。

だが、ミスに限らず、心の波が激しく、個人レベルなのに制御が効かないこともまれにある。

ひどかった事例では、通り魔や放火事件の類だろう。

天災は地球上の自然な流れを抑止しすぎた反動が近年数多くあり、回数に分けて地震ならば一発を微動程度に抑えるとかすべきだったのだろうが、電気の走る現代ではその選択がなかなか難しいところもあった。

だが、願望通りになるよう、想いは貫いてきたつもりだ。

しかし、手に負えぬことも時としてあるものなのだ。

抑止できなかった、或いは、見逃してしまったことにより個人が突出して大事件を招くことは多々ある。

その人間の心情を覗けば、今ある生活のシステムが自分にとっては窮屈、また物足りなく感じているのだという。

お金という数字に囚われて虜になった挙句、今を見失っている者も少なからずいる。

世は昔と違って、精神的戦いゆえに、疲れが蓄積する場所も心にありといったところだ。

人の想いが連鎖していくと恐れるに足るレベルの影響力をもった力が発生する。

我々はこれを制圧しなければならない。

今となっては均衡というのが理論上にすぎない。

もしかすると高嶺の花なのかもしれぬとため息をこぼすものだ。

だが、こんな不安定な人間とうまく渡り合っていく柔軟性に優れた人間も数多く実在している。

そんな人はほとんど補正をかけなくても良いから、神である私にとっても理想の人物像である。

つまり負担が圧倒的に少ないわけなのである。

だが、中には突出した人間をうまく流せずに、我慢するという形態をとる者もいる。

このパターンが一番恐ろしくて、いつ爆発するかわからない存在なのだ。

このパターンの人のほうが実は大多数なため、席の休まる暇がないわけだ。

彼らの怒りの係数をどう操作すべきか日々苦悩する限りだが、私は楽すぎて暇になるよりは達成感があって、この仕事にやりがいは感じているし、人間って面白いなとも思っている。

ここまでいろいろと述べてきたが、神ができることは操り人形のようにことを制御しきることである。

神の信仰と神の力に直接関係はないが、なんらかの形で神の姿を捉えられたのなら、私は仲良くやっていきたいと思っている。

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