名前、外来語ではネームって言ったりするんだけど、人を識別するために固有名詞として、古来から存在してきた、人間だけが持つ特徴。
それが名前を付けるという概念だ。
名前を付けることによって人は物事を簡単に管理ができるようになるのだけれど、それにはある裏の事情もある。
姿かたちが酷似していても、動物ならば自分の子供かどうかは判別がつく場合が多い、同じ仲間だと判別できる場合が多い。
そして名前がなくともコミュニティーを持っていて、共存し続けることができる。
だが人間はどうだろうか。
「やっぱり人間だけ特有だな」
そう思ったことを口にするほどに、人間だけが異質だったのだ。
僕は考古学者専攻というわけでもない、単なるIT企業に勤める一般社員に過ぎないのだけど、ちょっとした余暇に僕は一件どうでもいいことに思考を捻る、傾けるような癖がある。
ある意味それが脳トレのように鍛えるという側面で働いているのなら、無駄なことに真剣に考えることがなんだか意味のあることに感じてくるかもしれない。
「まったくだ」
自分を思考を肯定するかのように、誰もいない夜の部屋でひとり呟く。
僕は、燻という変わった名前だったこともあって、最初の印象は名前がわからないやつ、いわゆる不詳なんて呼ばれていた。
なんともひどい思い出だけれど、まるで万葉集のように作者不詳って感じで定義づけられているような感じがして、不詳君なんて呼ばれるのが心底嫌だった記憶がある。
企業に勤めても、名前を覚えてもらえるまでに時間がかかり、なかなか声をかけてもらえる機会が少なかった。
やっぱり、難しい名前ってかっこよくはあるけれど、難読すぎても認知の障壁になるから、与える名前は単純明快でわかりやすいものが、子供にとっては、ゆくゆくは大人になっていく子供にとってはとても良質なものなのかもしれないと今では思う。
「なんで親父はこんな名前つけたんだろうな」
名前の由来も、語源も知らないまま、聞きそびれて今になって、両親は他界した。
聞ける人なんていないから、ただ妄想するだけだ。
いぶす、それは、火であぶるようなニュアンスだったか、もしそうなら、名前に宿る意味は、他人の原動力もしくは自分で自分を動かす原動力をもち、鍛錬を続けろということなのだろうか。
こんなどうでもいいことを考えるのが、僕の毎日だ。
暇な時間こそ、人を孤独にもさせるかもしれないけれど、暇だからこそ余裕も生まれて健康になっていくのかもしれない。
相反する側面を持つ余暇という概念には、僕の名づけの根源を考える機会を与えてくれた。
悩むことはきっと・・・。
「人を成長させる過程なのかもしれない」
自分で答えを言語化してこそ、初めの一歩。
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