直子さんとの出会いは、都市部で開かれた大規模なピアノコンクールだった。
初めは音楽に興味はなかったけれど、マネージャーの仕事柄で、コンクールの視察に出かけていた。
いわゆる事務所への勧誘が目当てだった。
正直この仕事にやりがいを感じていなかったし、こんな人を幸せにできない、プロに素人がアドバイスするような職業、辞めてしまいたいなんて思っていた。
だけれど、その日訪れたピアノコンクールで、目を見張るものがあった。
滑らかな演奏、流れるような旋律。
僕はそのピアノが描く音楽の世界にのめり込んでいた。
感じているのはピアノの音のみのはずなのに、なぜだか、彼女が演奏する曲には情景が浮かんだ。
他の人は、鍵盤を叩きつけるような緊張がらみな演奏をしていて、聞いていられたものじゃなかったが、彼女は一人ずば抜けて、奇抜だった。
いい意味で奇抜だった。
これが天才って才覚なんだろうか。
その美しいメロディーに圧倒された僕は、コンクールの終わりに彼女に向かって声をかけた。
「あの・・・あなたのピアノに見とれていて、声をかけるのに1時間もかかってしまいました。」
それを聞いて彼女はくすくすと笑って
「直子です。よろしく。」
といって、右手を差し出してきた。
僕は手を取って軽く握り返した。
「ピアノにはね、情熱をかなり注いできたから、自信を持って弾けるの。」
「確かに自信に満ちた演奏でした。ピアノに興味なんてないなんて思っていた自分が馬鹿だったかのように、圧倒された演奏だった。もう世界に引き込まれていたからね」
「それは良かった。どう?私の曲って題名や曲のコンセプトをイメージできるかしら?」
「そりゃぁもう。語りつくしたらきりがないほどの没入感でした。既視感を感じました。まるで自分がその世界を旅をしているかのようなそんな感覚で、何より鳥肌が立っていましたね」
「そう」
直子さんは嬉しそうだった。
心から目が笑っている、そう感じたからだ。
「でもね、私にはピアノ以外が何もないの。これを失うのが怖い。あなたは、多分マネージャーさんか何かだと思うけれど・・・」
図星だった。
「別にスカウトをするつもりで話をかけたんじゃないんです。ただあなたの音楽の世界観に引き込まれて・・・。もう最初の目的なんてどうでもよくなりました」
「仕事、クビになってしまうかもしれないわよ?」
「それでもあなたの演奏が聞けるのなら嬉しい限りです」
「そう、嬉しいことを言ってくれるのね、初対面なのに」
直子さんはとにかく尖っていた。
話を聞けば、ピアノ以外のものを全て削ぎ落して、ピアノを弾くことだけに全てを注いでいたそうだ。
私にはピアノしかない、直子さんはそういったけれど、
「僕は直子さんにはピアノがある。僕は働いているけれど、給料を手段的な方法論であって、やりたいことがなくて無機質な毎日の僕とは違う。そこまでひとつのことに件名になれるって、本当に素晴らしいことだと僕は思うな」
そういうと、安心したように直子さんはにっこり笑ったのだった。
「そういってくれた人、あなたが初めてだったよ、ねぇ名前、教えてよ。」
「秀樹。それが僕の名前だ。よろしく」
「よろしく。」
再び二人は握手を交わした。
そこから幾度となく会話を重ねたり、コンサートに着てみたりした。
まるでいつも近くで彼女を見ているような感覚になって、明日、また何を話そうか考えている。
これは恋なのか・・・いや、彼女と僕は釣り合わない。
年齢的にも彼女は10歳近くも年下だ。
結ばれる未来なんて考えられなかった。
直子さんと行動を共にしていくうちに、ある違和感を感じるようになった。
僕たちの関係が恋人的な関係に移る人、いわゆるファンから批判的なコメントが寄せられるようになり、過去のスキャンダルが公になった。
そのせいだったのだろうか、彼女の音は色を失いつつあった。
でも僕はもう一度、あの音を聞きたいと思った。
直子さんにしかできない、直子さんにしか出せない音色を、もう一度。
「大丈夫、僕がついてます。いつだって相談に乗ります。」
「ありがとう」
彼女は涙ながらにそういった。
孤高であるからこそ、ファンからの心を掴んでいたところに、僕という男が接触したことによって、彼女をけがしてしまったのだと気づいたときには、僕は彼女から離れることを決意した。
そのことを伝えようとすると
「言いたいことはわかってる。でもどこにもいかないで。私のそばにいるって言ってくれたのは、嘘だったの?もっと私の音楽を聴いてよ、私を褒めてよ」
そんな初対面の頃とは考え付かない、か弱い直子さんの姿は、とても守ってあげないとと思わせるきっかけになった。
そして僕は決意した。
プロポーズすることを。
正直詳しい音楽のことなんてわからない。
でも昔も今も、直子さんのピアノの旋律は決まって、誰よりも美しいんだって、自慢してやりたいくらいだ。
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