2025年7月12日、イラストレーターでありVTuberとしても活躍するしぐれういさんの楽曲「ひっひっふー」のミュージックビデオ(MV)が公開されました。昨年発売されたセカンドアルバム「fiction」に収録され、そのタイトルが公表された際に大きな話題を呼んだ一曲が、ついに映像化されたのです。
問題作にしてマスターピース:なぜ「ひっひっふー」は心を掴むのか
「ひっひっふー」という独特のタイトル。この楽曲が発表された直前、ホロライブ所属の大空スバルさんが「ホロARK」配信で妊娠・出産をテーマにした大規模な企画を披露し、「しぐれういに孫ができた」とSNSでトレンド入りしていました。しぐれういさんが大空スバルさんの「生みの親」として「ういママ」の愛称で親しまれていることから、この出産イベントの直後に「ひっひっふー」が発表されたことは、多くのファンの間で期待と憶測を呼びました。
彼女の楽曲にはこれまでも「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」や「うい麦畑でつかまえて」といった、ネットミームを巧みに取り込んだ作品があり、本作もその系譜にあると思われました。しかし、実際に聴いてみると、二つの意味で衝撃を受けました。一つは、そのテクニックに裏打ちされた楽曲としての完成度の高さです。そしてもう一つは、初回限定版に付属するInstrumental版を含め、アルバム「fiction」の中で最高のクオリティを誇っていたことです。
陽気なサンバのリズムが刻まれるイントロから始まり、「ひっひっふー」というテンポの良い掛け声と共に高速ラップで「産み落とす イカしてる some body」と主題が語られます。これはまさに、イラストレーターとして納期を目指し、人物を描写していく過程で経験する混沌、苦悩、そして高揚感を捉えた楽曲であると直感しました。
一般的に、クリエイターの苦悩を描いた楽曲は、その血のにじむような努力や、表には見えない影の部分が、明るい曲調との対位法によって表現されることが多いです。例えば、サカナクションの「新宝島」では、「丁寧」という言葉を執拗に歌詞に挿入することで、膨大な努力の跡を刻み込みます。また、ピーナッツくんの「Drippin’ Life」では、死を意識するほどの血反吐を吐く努力によってマイスタイルを確立していく様子が歌われています。
しかし、しぐれういさんの場合は少し違います。「つよつよイラストレーター」としての自負、大変でありながらも高揚感の中で生み出される創造物の快感に焦点を当てている印象を受けます。
血ぃ染みてるペンの上 さえる点と線 うねり出すパースで パなす「芸」と「術」 齢九から磨いた腕とセンス is そこいらじゃ売ってねぇ
「ひっひっふー」の歌詞から引用されたこの部分には、腱鞘炎になりそうなほどの苦労がありながらも、長年かけて磨き上げたセンスによって紡がれる点と線の唯一無二性に対する彼女の誇りが、わずか3行で表現されています。さらに、「齢九」という言葉でしぐれうい(9歳)を引用するというギミックまで隠されており、その遊び心に驚かされます。
もちろん、疲労との闘いもあり、「『私が私やっちゃう』はNO」と、寝落ちしそうになる自分を奮い立たせる場面も描かれています。そして、息つく暇もないほど多忙な状況から追い立てられるように異端児として自分を鼓舞しながら、楽曲はサビへと加速していきます。既にアップテンポな楽曲であるにもかかわらず、さらに加速しながらなだれ込むこの展開は圧巻です。ここから曲調は、夏の音楽フェスで流れるような盛り上がりのロックへと転調し、一気に高揚感に包まれます。クリエイターにとって、追い込まれた時こそが最も輝き、高揚感に包まれる瞬間である。この楽曲は、その感覚を擬似体験させてくれるのです。
そして、次のビートへと繋がるラップパートは、個人的に最も胸を掴まれた部分です。
カラカラ 空回り ビビってちゃ損&the end ま、その「無理」って 謂わば 自尊心 多少のbusyで 得るのは $?The 円? は二の次で乞う「奇縁」 YOU & ME で描いた 瞬間芸術 stream show non-fiction & 『?』 さぁ、一歩 前へ
このラップパートでは、VTuberとしての「しぐれうい」が描写されています。イラストレーターの仕事とは異なり、インタラクティブに視聴者(YOU)と「しぐれうい」(ME)がコミュニケーションを取り、生まれる「瞬間芸術」。ビビることなく、自尊心の壁を破って想像/創造していくU&I(うい)の世界の魅力を語っています。VTuberの世界も、誹謗中傷をはじめとするトラブルや混沌に満ちていますが、その中でもメンタルを壊すことなく、颯爽とホロライブやにじさんじといった企業勢の企画に参加し、実績を作り続けている、最強のクリエイター「しぐれうい」の魅力が凝縮された一曲なのです。
このクリエイター賛歌を聴いた時、私は「ミュージックビデオで観たい!」と強く思いました。1ヶ月前に「fiction」収録の「ういこうせん」がMV化された際、これはしばらくMVにならないだろうと思っていたところ、突如として本作のMVが発表されました。
さらに驚くべきは、このMVを手掛けたのが映画『数分間のエールを』の制作チームであるHurray!(ぽぷりか氏、おはじき氏、まごつき氏)だったことです。『数分間のエールを』は3DCGソフトウェアBlenderを主軸としたアニメーションで、その独特の質感と内容の面白さから、「2020年代注目の映画監督100選」にも選出されました。Blenderアニメーションは後に『Flow』がアカデミー賞長編アニメーション賞を受賞したことで注目されましたが、私はギンツ・ジルバロディス監督よりも、ぽぷりか氏、もといHurray!派です。
『数分間のエールを』で創作の苦悩と快感を華麗に描いたHurray!が、「ひっひっふー」のMVを手掛けるのは、まさに必然だったと言えるでしょう。本作は、ある種の続編として機能しているのです。
コンセプト:楽しそうな努力家の姿を描く

今回のMV制作は、しぐれういさんからの直接の依頼で始まりました。ぽぷりか氏が明かす制作のきっかけは、彼らが2024年に制作した映画『数分間のエールを』の宣伝として行った「クリエイターリレー」にありました。多忙を承知でダメ元で打診したところ、しぐれういさんから即答で「やります!」との返事が。時間がないかもしれないと仰っていたにも関わらず、バリバリのフルカラーで主人公の彼方くんを描いてくれたそうです。金銭的には「良い案件」とは言えなかったにも関わらず、「君らの為ならやるよ」と言ってくれたクリエイターたちの温かさが、今回のMV制作へと繋がったと語られています。
「ひっひっふー」MVのコンセプトは、ぽぷりか氏が企画用にまとめた殴り書きの言葉が最も的確に表現しています。
■楽しそうな人、努力する人 楽しそうに見えるけど、のほほんとしてるだけで来れる場所なわけはない。 「私は頑張ってるんです」と誰かに大きな声で言う事は無いけれど、 でも確かに努力を重ねてここにいる。本当の意味で大人っぽい人。 元々持っている柔らかい空気感とイラストレーターとして努力を重ねてきた姿を合わせた、”初期衝動ではない”形での楽しそうに描き続ける強い姿を描きたい。
このコンセプトに基づき、MVではたくさんの人々がそれぞれの時間を過ごす中で、同じようにどこかのモニターの前で、ひたすらに絵を描き続けているしぐれういさんの姿が描かれています。PCのモニター越しの絵にしたのは、カメラを意識していない素の状態を表現したかったからだそうです。そして、一人で作業する時に歌わない人間はいないというぽぷりか氏の思いから、しぐれういさんにもノリノリで歌ってもらっています。この曲は確かに口ずさみたくなる魅力があります。
映像の設計図:テンポと見やすさを追求したコンテ
コンセプトが決まった後に制作されたのは、映像の設計図であるVコンテです。これは、とにかくテンポと見えるものを明確にするためのもので、ラフな絵で構成されています。歌詞のレイアウトやアニメーションについては、この時点ではあまり深く考えられていません。
モブキャラクターの構成も基本的にコンテの段階で決められていますが、キャラクターデザインや背景の細かい部分は制作しながら調整されていきました。色味やキャラクターが被らないように、まごつき氏が一生懸命考えてくれたとのことです。コンテ段階ではあっさりとしたブルースクリーン表現も、おはじき氏が様々なアイデアを出し、コンテを元に3人でより良いものへと昇華させていったことが伺えます。
絵作りの指針:変化を経て辿り着いたアートスタイル
コンセプトと設計図が決まったら、次は絵作りの指針となるコンセプトアートの制作です。今回のメイキング記事では、まごつき氏が担当したアートスタイルやキャラクターデザインについてもぽぷりか氏が紹介しています。
当初のコンセプトアートは、制作過程で何度も変更が加えられ、最終的な完成品とは印象が異なるとのこと。近年、歌詞を入れないMVが多かった中で、今回は歌詞を大きく見せたかったため苦労したそうです。例えば、背景を極限まで省略すれば文字は映えやすくなりますが、そうするとモブのカットでシチュエーションが分からなくなってしまうため、背景の省略や世界観の設定は様々なバランスを見て調整されました。カットによっても表現が使い分けられています。
キャラクターデザインでは、コンセプトアートを元に資料が作成されました。MV制作という機会を活かし、普段の装いではなく、今回表現したい世界観に合わせて骨格から少し「お色直し」が施されています。まごつき氏が描いたキャラクターデザインは、そのぷっくりとしたフォルムが特徴的です。とろちゃん・ちょこちゃんも入れたかったため、描いてもらったとのことです。
そして、いよいよ3Dモデリングへと移行します。完成した3Dモデルは、普段のしぐれういさんと並べても違和感がなく、2Dだと思ってくれた人もいたことに喜びを感じているそうです。元々の繊細な絵柄の雰囲気を、今回の世界観に合わせてポップに落とし込んでいる点がポイントです。VTuberは定期的に新衣装を発表しますが、絵柄ごと変わるというのは新鮮なアプローチかもしれません。
ルックデヴ:試行錯誤の末に生まれた最終的なルック
コンセプトアートからの変化は、ルックデヴ(ルック開発)の段階で顕著に現れました。開発初期の状態では、コンセプトアート通りの黒くゴツっとしたアウトラインを目指していたものの、3Dになった際に絵の魅力が活かしきれないと感じ、何十時間も試行錯誤を重ねた上で方向転換をしたそうです。
当初、背景に動きを持たせたいとシーリングファンが設置されましたが、いつの間にかボツになり、その動く要素は謎のダックぬいぐるみに引き継がれたというエピソードも明かされています。また、コンセプトアートにあった和風の雲の表現は、最終的にホットミルクの湯気に継承されるなど、細かな要素が様々に変化していきました。
最終的なルックは、初期の状態からさらに細部が調整されています。例えば、頬のラインなども微妙に異なるなど、徹底したこだわりが伺えます。
アニメーション:歌詞と映像の融合、そして魚眼表現への挑戦
ルックが決まった後は、しぐれういさん本人やカメラ、そして歌詞などのアニメーション制作が本格化しました。ぽぷりか氏は、まくし立てるような曲と歌詞を、読めるかギリギリのスピード感で構成していく作業が純粋に楽しかったと語っています。MV制作が3年ぶりだったこともあり、その場の小さな思いつきでどんどん良くなっていく感覚が心地よかったそうです。
歌詞もすべて3Dシーン上で動かされており、デザイン込みで絵として描かれた歌詞(左上)を3Dで読み込み、変形させたりグラデーション処理をかけたりする工夫が凝らされています。歌詞の下の方に、出番を待ちわびる「神童君」がいるというユーモラスな演出も盛り込まれています。
技術的な側面では、ぽぷりか氏が長年Blender(3Dソフト)で実現したかったという魚眼表現が、今回ついに実現しました。技術的な制約からこれまで不可能だったそうですが、今回「頭の中に天才が舞い降りて」完成したとのこと。
上がカメラからの絵で、下はシーン全体の絵です。 カメラから見た時に魚眼に見えるようにシーン全ての形状を歪ませてるんです。 ノーベル賞ものの発明だと思う。
このように、カメラから見た時に魚眼に見えるように、シーン全体の形状を歪ませるという画期的な手法が用いられています。さらに、今回はAfterEffectsを使わず、Blenderだけでコンポジットも完結させたとのこと。クリスタとBlenderがあれば「ひっひっふー」MVは作れるという言葉は、クリエイターにとって大きな希望を与えるでしょう。
ういさん直筆:リアリティを追求した遊び心
MV中に登場するしぐれういさんが描いている絵や、最後のサインは本人の直筆です。絵については、最初はしっかり描いてもらっていたそうですが、「もっと描き始めのラフなので大丈夫!あ、もっとラフに!」と3回ほど描き直してもらったという裏話も披露されています。これにより、MVにさらなるリアリティと温かみが加えられています。
たくさんの人々:モブキャラに込められた人生の物語
MVのもう一つの重要な要素は、しぐれういさん以外のたくさんのモブキャラクターたちです。「色んな人がいる中のしぐれうい」というコンセプトを実現するために、どうしても多くの人数が必要だったそうですが、予想以上に大変だったとのことです。
唯一3Dであるしぐれういさんとの違和感が出ないようにしつつ、モブそれぞれが被らないようにキャラクターや背景の印象を変え、一人一人髪や目をパーツ分けして骨を入れるなど、膨大な労力がかけられました。
これらのモブキャラクターはすべて、まごつき氏が絵を描き、おはじき氏が動かせるようにキャラクターをセットアップし、3D上に背景を作成したものです。彼らが何をしているのか分からないという問いに対し、ぽぷりか氏は以下の「イカれたメンバー」たちを紹介しています。
- 「もう一枚撮って良い?いいよー」のカップル
- プログラミングする大学生
- 「馬鹿な真似は止めるんだ」の委員長
- 自分も踊っちゃう委員長
- メイクをガッツリミスった女の子
- ゲームで女の子ボコボコにしちゃう男の子
- ボコボコにし返す女の子
- 電車でぎゅうぎゅうな会社員
- 落ち着いて動画が見れた会社員
- レポート提出直前にパソコンから異音がし出した大学生
- パソコンが固まった大学生
- お昼だけど眠たい管理職おじさん
- 体育祭の女子高生
- 彼女と二人で見始めた映画が凄く刺さった男
- 久しぶりに会社で声出して笑った会社員
- デートの前に髪型を確認する女子高生
- 髪を切った女子高生
- なんとかランドで楽しい女子高生
- ショート動画を見てる大学生
- 寝る前だったのに急にチャットで異性から迫られた女の子
- クライアントの面白くない話で無理やり笑う専務
- ケータイ落とした女の子
- 道に迷ったおじいちゃん
- 何もしてないのにパソコンが壊れたOL
- お酒飲んで楽しそうな先輩後輩
- スマホとPC使い分けて仕事してる新卒
- 仕事しながら寝落ちしちゃった夫を気遣う妻
- 修学旅行でヒジョーに高いタワーを訪れた高校生
- カフェでライブの当落を祈る女子大生
- 音ゲーする男の子
- バッグの中の飲み物を差し入れる先輩
- 山頂に着いた夫婦
- カフェのコーヒーに満足なお兄さん
- ダンスの練習を記録する二人
- 「なにこれ弾けるわけないよ~!」の大学生
- 映像を撮ってる高校生
- そして絵を描くイラストレーター。
膨大な数のキャラクターが登場しますが、同じキャラクターが髪を切ったりして2回登場することにも意味があると言います。数秒の間に彼らの人生を感じさせるような演出が施されており、その中にしぐれういさんも混じって絵を描いているというコンセプトは、MVをより深みのあるものにしています。ぽぷりか氏は、これを作りながら、自分の知っているあの人がこの世界観にいたらどんな表情で描かれるだろうかと想像していたと語っており、見ている人々の心にも同様の想像力を掻き立てます。
Blender Eeveeとコンポジットの妙技

今回の「ひっひっふー」MVは、全編Blender Eeveeで制作されています。Eeveeはリアルタイムレンダラーであり、通常では魚眼表現が難しいとされていますが、ぽぷりか氏はBlender上でカメラから見た全オブジェクトを歪ませることで、疑似的に魚眼を再現するという画期的な手法を開発しました。長年の念願であった魚眼演出が実現できたことに、喜びを隠せない様子です。
さらに、コンポジット(合成)も全編Blenderで行われています。AfterEffectsと比較して癖はあるものの、動作が軽い点がBlenderの利点だと言います。Blenderコンポジット系のAddonの発展にも期待を寄せており、AfterEffectsのプリコンプと似たような挙動で扱えるAddonも自作したとのことです。3D用、コンポジット用、カット編集用など、複数の.blendデータ同士の繋がりを自動で記録し、フローチャートとして表示することで、スムーズなファイル間の遷移を可能にしているそうです。この作業体験は「めちゃくちゃ気持ちいい」と表現されており、制作への情熱が伝わってきます。
まとめ:クリエイター賛歌のマスターピース
「ひっひっふー」MVは、昨年ヘビーローテーションしていた楽曲のイメージと寸分違わない、まさに**「解釈一致」**の作品でした。Hurray!チームのパワーアップしたフォント捌き、エフェクト、そしてショットの重ね合わせの爽快さには圧倒されます。通勤時や執筆、動画制作時など、クリエイティブな活動のBGMとして、このMVは間違いなく最高の選択肢となるでしょう。
しぐれういさんのクリエイターとしての魅力と、Hurray!チームの卓越した技術と情熱が融合した「ひっひっふー」MVは、私たちに「頑張る者への賛歌」を力強く届け、創作の喜びと苦悩、そしてその先に広がる無限の可能性を示してくれています。このMVは、見る人それぞれの心に、創造への熱いエールを送ってくれることでしょう。
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