淳子は、薄暗いリビングのソファに座り込み、目の前の小さな食卓をぼんやりと見つめていた。
テーブルの上には、子供のために用意されたお皿が並んでいる。
けれど、今は誰もその食事を取ることはなく、ただ静寂が漂う。
時折、隣の部屋から聞こえるテレビの音が、彼女の心に引っかかるようだった。
「和則、もう少しだけでいいから、私たちの時間を大切にしてほしい…」
心の中で何度も呟いた言葉は、まるで声にならず、ただ涙だけが頬を伝い落ちた。
彼女の心は、かつての幸福な日々を思い出しながら、今の状況とのギャップに苦しんでいた。
結婚してから、二人で頑張っていこうと誓ったはずだった。
しかし、彼が変わってしまったのは、子供を作ってからだった。
子供が生まれたことで、和則はますます仕事に没頭し、家に帰るのは遅く、休日も会社のことばかり考えているように見えた。
淳子は、彼を支えたかった。
だが、子供の笑顔を見つめるたび、彼女の心の中に不安が広がっていくのを感じた。
「教育や子育てにお金がかかるのは分かる。でも今、あなたにとって大切じゃないの?」
そう言いたかった。
言いたくて仕方なかったが、その言葉は口に出せず、いつも心の奥底に閉じ込められていた。
淳子は、リビングの壁にかかる結婚式の写真を見上げた。
和則の笑顔、そして自分の幸せそうな表情。
あの瞬間、彼と手を繋いで未来を描いていた自分が懐かしい。
今の彼は、まるで別人のようだ。
彼女の心の中に渦巻く疑問を、彼は理解してくれるのだろうか。
ある晩、淳子は耐えきれず、和則に問いけかた。
「和則、私たち、どうしてこんなに離れてしまったの?」
和則は一瞬驚いた顔をした後、少し考え込むように目を伏せた。
彼の目には疲労が宿っていた。
仕事に忙殺され、家に居ながらも心は外にあるように見えた。
「淳子、今はお金が必要なんだ。子供のためにも、君のためにも…」
その言葉には、温かみがない。淳子は心が冷たくなり、胸が締め付けられるような思いがした。
彼が自分のことを考えているのは分かるが、同時に彼女の心の声がどこに行ってしまったのか、まるで忘れ去られたかのようだった。
「でも、私たちの時間はどうなるの?子供との時間だって、もっと大切にしたいのに…」
淳子の目から再び涙が溢れた。和則は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに仕事の話に戻した。
彼にとっては、明確な目的があり、その目的のために全力を尽くしているのだろう。
しかし、淳子にはその目的が見えなかった。
彼にとって大切なことは、もはや彼女や子供ではないのだと気づかされた瞬間だった。
その後も何度か話し合いを重ねたが、結局、お互いの価値観が合わないことが明らかになり、口論に発展することが多くなった。
淳子は心の中で彼を責め、同時に自分自身にも疑問を持った。
どうしてこんなにも愛し合ったはずの二人が、今こうして壊れていくのだろう。
ある日、子供が寝静まった後、淳子は再び和則に話を切り出した。
「和則、もう一度考えてみて。私たち、どうなりたいの?」
和則は一瞬黙り込んだ。彼の目には、何かを考え直すような深い思索が浮かんでいた。
しかし、その後に出た言葉は、淳子にとってさらなる悲しみをもたらすものだった。
「今は、子供のためにお金を稼ぐことが最優先なんだ。君の気持ちは理解するけど、今はそれしか考えられない。」
その言葉を聞いた淳子は、心が折れるような感覚を覚えた。
彼の中には、かつてのあの温かい光はもうなく、ただ冷たい現実だけが残っていた。
淳子は言葉を失い、ただ彼を見つめることしかできなかった。
そして、ついに淳子は決断を下した。
彼との未来を信じることができなくなったのだ。
数日後、彼女は弁護士に相談し、離婚の手続きを進めることにした。
「和則、私たち、もうおしまいにしましょう。」
彼女の言葉は、悲しみと決意が混ざり合ったものだった。
和則は驚き、そしてその後、何も言えなかった。
彼女の心に宿っていた不安と悲しみが、ついに彼との関係を終わらせる決断を下させたのだ。
淳子が家を出ると、外の空気が彼女の心の中に新しい風を吹き込んだ。
自由になった気持ちと、同時に失ったものへの悲しみが交錯していた。
しかし、彼女はもう後悔しないと決めた。
新しい未来を見つけるために、彼女は自分自身を取り戻す時が来たのだ。
二人で描いた未来は消えたが、淳子は今、再び自分の人生を生きる準備をしていた。
何を伝えたいのか、何が本当に大切なのか、それを見つける旅が始まるのだと、彼女は心に誓った。
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