「残さず食べてね」
もうその言葉を聞くことさえできない。
南野綾子。
俺は彼女と夫婦別姓で過ごすことにした。
姓名を変えると違和感があるためだ。
寧ろ同性にする方が古い風習なのかもしれない。
結婚を前提に付き合うようになったのは、専門学校で同サークルの新入生歓迎会がきっかけだ。
告白は彼女側からという一般的な者とは逆のパターンだった。
一般的には男性からプロポーズするのが流れだが、彼女の行動はそれを大きく覆した。
自分としてもまさか告白されるとは思わなかったので、心の準備はしていなかった。
だからそのときは数秒黙り込んだのち、付き合おうとだけ伝えた。
他にいろいろと何かを伝えたほうが良かったのかもしれないが、その時はその場にふさわしい気の利いた言葉が思い浮かばず、頭が真っ白になってしまっていた。
告白するもされるも経験のない俺が、大学生活をはじめとして、リア充ライフを幕開けたのだ。
付き合い始めて2か月目、コミュ障で話題がなかなか続かず、彼女を楽しませることができていたか少々不安だった。
彼女はいつも楽しそうに笑みを浮かべていて、それが顔に染みついているといっても過言ではない。
だからか、俺は彼女の心を読めなかった、くみ取ることができなかった。
ある日、突然俺の家に行ってみたいと言い出したので、学校の授業が終講した後に校門で待ち合わせした。
今日は白のパーカーに長袖のジーンズを履いていた。
「そういや私服でスカートをはいているところって見たことがないな。」
声に出ていた。
それに対し、彼女はスカートは動きずらいから嫌かなといった。
俺の家、マンションの2階の最奥に位置する部屋だ。
俺の家に来て何をするのかと思えば、彼女は鞄から食材を取り出した。
何かを作るのだろうか。
料理ができるというのなら、俺としても点数が高い。
内心そう思っていたが、出てきたのは黒焦げの塊だった。
「これは何?」
「砂糖と醤油で炒めた野菜だよ?」
どうやったら炭化するまでに至るのだろうか。
料理は不慣れでとりあえず強火で焼いたのだろうか。
当時の料理はそれはひどいものだったけれど、それと比べれば現在は人前に出せるレベルまで上達していた。
「今日もうまいよ。」
「そう、自信作だから残さず食べてね。」
もうあの料理を口にすることはできない。
毎日口の中が寂しい。
ものたりない。
彼女の作り出す味で満たされたい。
出産を期に亡くなった妻のことを思い出しては涙する。
「パパーお腹いすいた。」
娘の純粋な言葉が耳に届く。
「わかった、何か作るよ。」
妻にはかなわないと思うけれど、妻を思い出しながら味の再現を毎日試みる。
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