薄暗いカフェの中、由貴は窓際の席に座り、ゆっくりと冷めていくコーヒーを見つめていた。
外は小雨が降りしきり、街の灯りがぼんやりと水面に映っている。
彼女の心の中も、まるでその景色のように揺れていた。
「由貴、遅くなってごめん。」
智之がカフェの扉を開けて入ってきた。
彼の声は、雨の音にかき消されそうだった。
由貴は顔を上げ、彼に微笑みを返すものの、その笑顔はどこかぎこちない。
「いいよ。待ってたから。」
由貴は心の中で自分に言い聞かせるように答えた。
智之の存在が、少しでも心を軽くしてくれることを期待していた。
智之は彼女の向かいに座り、彼女の目をじっと見つめた。
彼の目には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。
由貴はその視線に戸惑いを覚えた。
「実は、話があるんだ。」
智之が口を開いた。由貴の心臓が一瞬止まったかのように感じた。
彼の言葉が何を意味するのか、彼女は既にわかっていた。
「うん、何?」
由貴は思わず声を震わせた。
「俺、転勤になった。」
智之の言葉が彼女の心に直撃した。
彼の言葉が大きな波となって、彼女の胸の内を掻き乱す。
「いつ?」
由貴は冷静を装ったが、心の奥底では恐れが渦巻いていた。
「来月から。だから、これが最後のデートになるかもしれない。」
智之は目をそらし、テーブルの上のメニューを見つめている。
由貴はその言葉を飲み込むのが苦しかった。
彼女たちの関係は、いつも一歩踏み出す勇気を欠いていたのだ。
智之が転勤することで、彼女の心の中の不安は一気に現実となった。
「そんな…私、智之がいなくなったらどうすればいいの?」
由貴は感情がこみ上げ、思わず声を大にした。
智之は顔を上げ、彼女の目を見つめた。
「俺も同じ気持ちだよ。だけど、仕事だから仕方ないんだ。」
「仕事よりも、私たちの方が大事じゃないの?」
由貴は涙を堪えようとしたが、その声は震えていた。
「由貴…」
智之は彼女の手を優しく包み込んだ。
温もりが彼女の心に少しだけ安心をもたらした。
「でも、それをどうすることもできない。俺がいなくなることで、由貴が辛くなるのはわかってる。でも、俺は挑戦したいんだ。」
智之の目には決意が宿っていた。
由貴はその言葉に、何かを感じ取ろうとした。
しかし、彼女の心はまだ整理がつかず、
焦燥感が募る。智之の手の温もりが、彼女の心を揺さぶる。
「行かないで…お願い。」
由貴は思わず彼の手を強く握った。
智之はその手を優しく解き、由貴の目を見つめた。
「由貴、これが終わったら、また会えると思う。約束する。」
「約束なんて…意味がないよ。」
由貴は心の中で叫んだ。
約束を守らない人間が多いことを、彼女は知っていた。
その時、智之の表情が変わった。
彼は静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。
雨はまだ降り続いている。
彼の背中は、どこか寂しげに見えた。
「俺は、由貴を忘れない。どんなに遠くに行っても、君のことを思い出すから。」
智之の言葉は、彼女の心に深く刺さった。
「でも、どうしても離れたくないのに…」
由貴はその言葉を返せずにいた。
彼女の心は、彼の言葉を受け入れられなかった。
智之がカフェを出て行くと、由貴は彼の後ろ姿を見つめた。
彼が去っていくのは、まるで自分の心が切り離されていくようだった。
「さよならの意味って、何だろう。」
由貴は心の中で呟いた。彼女の目には、涙が溢れていた。
雨の中に消えていく智之の姿が、まるで自分の未来のように感じられた。
由貴は、彼との思い出を胸に抱えながら、その場を後にした。
彼女の心に残るのは、約束ではなく、彼の温もり。
そして、彼女が智之に伝えられなかった言葉だった。
この日、由貴は一つの決断をする。
智之と一緒にいた日々を大切にし、彼の言葉を信じて生きることにした。
彼が遠くにいても、彼女の心の中には、いつも智之がいる。
それが何よりも大切なことだと思ったから。
彼女は、未来を信じることにしたのだ。
さよならは、決して終わりではなく、新たな始まりなのだから。彼女はそう思った。
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