生きていてれば誰も必ず後悔するという場面に直面する。
そんな人が人生の最期の日を宣告されたらどうだろう。
悔いの残らぬように対処できるだろうか。
本を読んでいて出会った美しい終わり方というフレーズがこの疑問を生んだ発端だ。
そもそも美しい終わり方とは何なのか。
何をもって美しいと捉えるのか定かではなかった。
文字を追う目を止め、その言葉を凝視して1分ほどが経った頃、私はある結論に行き着いた。
もしかすると他者から見れば滑稽なことかもしれない。
でも私は思った。
美しい終わり方はいつ何時も起こっていて、1日に中の1シーンを切り取ればその内部の語尾は結末として認識される。
つまりある動作の始まりはあって、ともに終わりも複数回存在し、それぞれに美しさが見え隠れしているということだ。
無論必ずしも起と結が美的なもので彩られているとも限らないが、そういった考え方もできる。
我々には美しい終わり方を試行することが許されている。
何度だって自分の作品を飾ることだって可能なのだ。
1つの考えから私はいてもたってもいられず、スマートフォンを片手にカメラアプリを起動して身の回りの風景を写真として収めていく。
物事の終止符をコレクションしているかの感覚。
少し変わった感情なのかもしれない。
でも、写真に写すとき楽しいという気持ちが高揚していた。
写した写真を見返すと、どれも個性的な終わり方として空間に収まっている。
いつの日か私は自分の写しとった終幕を他人にシェアするようになっていた。
投稿の動機は自己満足のためであるが、承認欲求を満たすにはちょうどよかった。
今の私は思い出という数々の終わりを添付した情報に価値を与えているも同然と思っていた。
写真を写すだけでは自分の中だけに留めておく、いわば独占的な思考なのかもしれないが、私はその考えから逸脱して、終わりを気まぐれに通達するものだ。
「嗚呼、1人で一つの終わりを観るよりも、複数の目で頭でみた方が作品が生きてくる感じがする。」
もう離れられない離さない。
カメラ機能は友達的存在だ。
一文に影響された私はこうして、写真とともに毎日をエンジョイしている。
そしてどんな美しい終わり方を遂げているのか、撮影した写真を見て感じとるのだ。
今日もまた新しい終わり方を探しては様々なところへとレンズを向ける。
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